倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。
しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。
大久保利通は、はたしてどんな人物だったのか。その実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第17回は長州征討をめぐる大久保利通と徳川慶喜の説得工作についてお届けする
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<第16回までのあらすじ>
薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通(第1回)。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだ(第2回)が、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り(第3回)、島流しにあっていた西郷隆盛が戻ってこられるように説得、実現させた(第4回、第5回)。
薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通(第1回)。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだ(第2回)が、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り(第3回)、島流しにあっていた西郷隆盛が戻ってこられるように説得、実現させた(第4回、第5回)。
ところが、戻ってきた西郷は久光の上洛計画に反対。勝手な行動をとり、再び島流しとなる(第6回)。一方、久光は朝廷の信用を得ることに成功(第7回)。大久保は朝廷と手を組んで江戸幕府に改革を迫るため、朝廷側のキーマンである岩倉具視に「勅使派遣」を提案。それが受け入れられ、勅使には豪胆な公卿として知られる大原重徳が選ばれた(第8回)。得意満面な大久保を「生麦事件」という不測の事態が襲う(第9回)が、実務能力の高さをいかんなく発揮(第10回)し、その後の薩英戦争でも意外な健闘を見せ(第11回、第12回)、引き分けに持ち込んだ。勢いに乗る薩摩藩。だが、その前に立ちはだかった徳川慶喜の態度をきっかけに、大久保は倒幕の決意を固めていく(第13回、第14回)。閉塞した状況を打破するために尽力したのが、2度目の島流しになっていた西郷の復帰だった(第15回)。復帰後、西郷は勝海舟と出会い、それまでの長州藩討伐の考えを一変させる(第16回)。
もはや後ろ盾が必要ないほど力をつけた大久保
「自分の経験は、どんなに小さくとも、百万の他人の経験よりは値打ちのある財産である」
ドイツ啓蒙主義を代表する劇作家ゴットホルト・エフライム・レッシングの言葉だ。大久保利通の人生をみても「人を大きく成長させるのは、実践においてほかはない」ということがよくわかる。
かつて、大久保は国父である島津久光の上洛を実現させるために、先に京都に乗り込み、朝廷の公家たちにアプローチしようとしたが、門前払いにされて散々な結果に終わった。
ほろ苦いデビュー戦から、大久保はいったい何度、朝廷の公家たちや幕府の重臣たちを相手に交渉を重ねたことだろうか。
もはや、大久保に久光の後ろ盾は必要なかった。まさに今、大久保の説得によって、公家たちが右往左往しながら、朝議で決めたことを覆そうとしていた。
「大久保の言うとおり、長州征討は得策ではないのではないか?」
大久保の説得によって朝廷の空気が揺らぎ始めていた。そこには大久保の経験に裏打ちされた「交渉テクニック」があった。
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