弱々しくやせっぽちな少年だった大久保利通
「タケンツツボ」
大久保利通は、幼少期にそんなあだ名をつけられていた。意味は「竹の筒」。胃弱で弱々しく、やせっぽちだったからである。
いわゆる虚弱体質だった大久保は、その見た目どおりに武術が不得意だった。当時の薩摩藩では「郷中教育」(ごじゅうきょういく)という町内単位に分けた独自の青少年教育が行われている。武士の男子は6~7歳になると郷中に加入し、22~23歳ごろまでは、組織を抜けられなかった。
郷中では武術の訓練もあり、その結果、薩摩藩では勇猛な武士が数多く育成されている。大久保も郷中に属しており、槍を梅田休之丞に、柔術を海老原正蔵や叔父の皆吉金六に習った。
しかし、とてもじゃないが、稽古にはついていけなかったようだ。明治43(1910)年に刊行された勝田孫弥著『大久保利通伝』には、次のように記されている(現代語訳は筆者)。
「利通は幼少期から長身で痩せており、つねに胃を患い、15、16歳から数年間は、ほとんど武術をすることができなかった」
そのうえで「武芸は利通の長所ではない」とはっきり書かれている。
大久保はのちに、武闘派の幼なじみである西郷隆盛と組んで、革命を成し遂げる。2人は互いを補う関係にあったといえよう。
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