名君?暗君?「徳川慶喜」強情だけど聡明な魅力 将軍にはなりたくないのに期待されてうんざり
インパクトが強すぎる「敵前逃亡」
臣下を見捨てて、自分だけ生き残ろうと逃げ出した――。これが、慶喜が暗君とされるいちばんの理由といっていいだろう。
慶応4(1868)年、官軍と旧幕府軍が政権の主導権をめぐって、京都で激突。鳥羽・伏見の戦いの火ぶたが切られた。すでに慶喜によって大政奉還が行われていたため、政権は朝廷に返上されていたものの、この闘いの結果次第では、旧幕府軍が巻き返すことは不可能ではなかった。
ところが、慶喜は総大将の身でありながら、戦の途中で大阪城を脱出。あろうことか、江戸に逃亡してしまったのである。リーダーとしてあるまじき敵前逃亡は、あまりにインパクトが強く、大政奉還も「無責任な政権投げ出しだった」と解釈されることとなった。
しかし、肝心なところで逃げ出してしまうところが慶喜にあったにせよ、その一点だけで論じるのは、フェアではないだろう。さかのぼって、将軍になるまでの慶喜が、どんな思いを抱いていたかをみてみよう。


















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