名君?暗君?「徳川慶喜」強情だけど聡明な魅力 将軍にはなりたくないのに期待されてうんざり

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軟弱なお坊ちゃんというイメージを持たれがちな慶喜だが、幼少期は厳しくしつけられた。なにしろ、慶喜の父は第9代水戸藩主で、没後に「烈公」と呼ばれるほど、荒々しい気性を持つ徳川斉昭である。総計37人も子どもをもうけた斉昭は、7人目の男の子として生まれた七郎麻呂、つまり、慶喜を厳しく育てた。

斉昭が江戸詰めだったため、慶喜は水戸ではなく、江戸で生まれた。しかし、「江戸で育てると華美な風俗に流される」という理由で、斉昭は慶喜をわざわざ水戸に送って子育てをしている。すでに廃れつつあった水戸家伝統の育て方を、斉昭は慶喜のために復活させたのである。

食事は一汁一菜。魚など動物性タンパク質が付くのは、月に3回だけ。さらに、布服や蒲団も絹が使われることはなく、木綿か麻のものを使用していた。さらに、慶喜は寝相が悪かったので、「将軍になったときに災いするのでは」と心配した斉昭によって、枕の両側に剃刀の刃を立てて寝かされていたという。

「本を読むより灸の痛さのほうが楽」

日常的にこれほど厳しかったのだから、イタズラなんてしようものならば、容赦なく灸を据えて懲らしめられた。言うことを聞かなければ、座敷牢に閉じ込められることさえもあったという。

そんな厳しい水戸家にしつけに対して、慶喜がただおとなしく従ったかといえば、それなりの抵抗も示している。慶喜は剣・弓・馬など、それぞれ専門の師につくほど武術には励んだが、その一方で、読書はどうしても好きになれなかった。

そんな様子から、学問に不熱心だと、灸の罰を何遍も受けて指が腫れ上がったが、慶喜はこう言い放ったという。

「陰気な本を読むよりはこの痛さを我慢するほうが楽だ」

父に座敷牢へとぶちこまれても、なお本を読むこと拒否した慶喜。食事も禁止されるとようやく懲りて、以後は学問に励んだ。22~23歳ごろにもなれば、『資治通鑑』『孫子』などを愛読するようになったというが、こうした慶喜の強情さは、その後もしばしば顔を見せることになる。

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