名君?暗君?「徳川慶喜」強情だけど聡明な魅力 将軍にはなりたくないのに期待されてうんざり

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聡明だった慶喜は、物心ついたころから「次期将軍に」と周囲からいつも期待されながら、育つことになる。斉昭があれだけ厳しくしつけをしたのも、慶喜には将軍になる器量があると踏んでいたからだ。12代将軍の徳川家慶も、慶喜の将来を見込んで、11歳にして一橋家を相続させたくらいである。

しかし、慶喜のほうはというと、将軍になるつもりは毛頭なかった。斉昭にこんな手紙を書いたことは有名である。

「天下を取り候ほど気骨の折れ候事はこれ無く候。骨折れ候故、いやと申す義にはこれ無く候得ども、天下を取り候て後、仕損じ候よりは、天下を取らざる方、大いに勝るかと存じ奉り候」(『慶喜公伝』)。

現代語訳すれば、「天下を取ることほど骨が折れることはありません。骨が折れるから嫌だというわけではありませんが、天下をとったあとに失敗するくらいなら、天下を始めから取らないほうがはるかによいと思います」といったところだろう。

何ともクールな姿勢だが、すでに幕府は弱体化しており、貧乏くじを引かされるのはごめんだと考えたのだろう。勝手に自分に期待する周囲をこうして牽制した慶喜だったが、それでもなお、本人が気乗りしないまま、「慶喜を将軍に」という声は高まる一方だった。

イケメンで家定から疎まれた

そんな流れに反発したのが、第13代将軍の徳川家定である。家定は脳性麻痺を患っていたと言われており、言語が不明瞭だった。そのため、平時ならともかく、アメリカに通商を迫られるという緊急事態を乗り切るのは難しいだろう、と誰もが考えていた。

家定には子がいなかった。次期将軍を早く立てねばという雰囲気のなかで、最有力候補となったのが、慶喜である。家定からすれば、退位の外堀を埋められているようで、面白くなかったことだろう。

また家定は、幼少時に患った痘瘡(ほうそう、天然痘)によって、顔にあばたが残っており、それを気にして人前に出るのを嫌った。一方の慶喜はといえば、美青年で大奥からも「御美麗」と称賛の声があがるほどの美男子。そんな状況下で、家定が慶喜をよく思うわけがない。

だが、慶喜からすれば、そんなことは知ったことではない。将軍になりたくもないのに、勝手に期待され、将軍からは嫉妬されて嫌われたとなれば、うんざりしたことだろう。それだけに、次期将軍が自分ではく、紀州藩主の徳川慶福(家茂)に決まると、慶喜は心底ほっとしたらしい。大老の井伊直弼にこう告げて、ほほ笑んだという。

「血筋からいっても、慶福の様子からいっても、それが妥当だ」

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