名君?暗君?「徳川慶喜」強情だけど聡明な魅力 将軍にはなりたくないのに期待されてうんざり

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確かに、慶福は家定の従弟にあたるため、将軍家からの血筋は近い。13歳になったばかりという幼さが心配されていたが、「慶福の様子からいっても」の言葉から、慶喜は慶福ならば大丈夫だと考えていたことがわかる。

とはいえ、何としてでも慶福を擁立しようと尽力した井伊からすれば、ライバル慶喜の将軍就任への意欲のなさには、肩透かしを食らった気分だったのではないか。こうした言動の読みにくいところが、慶喜にはあった。

慶喜の言動が単純ではないのは、血筋が複雑なことも関係しているだろう。慶喜の母、吉子は有栖川宮織仁親王の娘にあたる。つまり、慶喜には徳川家と朝廷の両方の血が流れていたことになる。両者が対立したときに、どちらの意向を重視するか。否応なしに、狭間に立たされる立場にあったといってよいだろう。

そんな事態を見越して、父の斉昭は慶喜にこう伝えていたと、慶喜自身が『昔夢会筆記』で振り返っている。

「たとえこれから幕府に背くことがあっても、絶対に朝廷に背いてはならない」

水戸藩は、徳川御三家(紀伊、尾張、水戸)の一つである。であれば、幕府を重視しそうなものだが、御三家のなかでは格下とされ、徳川宗家の家督を相続する権利もなかった。水戸藩が「尊王」を掲げたのも、「幕府には決して重視されない」といった状況が関係していたのである。

朝廷に背を向けられない運命を背負った慶喜だが、本人も誇りに思っていたらしい。初めて江戸に登場したときは、奥女中たちに、「予は有栖川宮の孫なるぞ」と言い放ったという逸話もある。

井伊直弼を「才略に乏しいが決断に富む」と評価

そんな中、大老の井伊直弼が、朝廷の意向を無視して日米修好通商条約に調印。慶喜は井伊に抗議している。といっても、調印自体を怒ったのではない。そのことを朝廷に報告するにあたって、使者を遣わすこともなく、手紙での報告にとどめたことに、苦言を呈したのである。

「すでに調印が済んでいるからには、もはやどうすることもできない。しかしながら、これほど重要なことを独断した事情については、くわしく京に伝えなければならない。一日も早く幕府から何人が上京して、伏して帝に申し上げるべきである」
(『昔夢会筆記』)

そんな強引な井伊のことを慶喜は「才略には乏しけれども、決断には富める人なりき」と評している。「自分には、そういう決断はできそうにない」という羨望さえ込められているように思う。朝廷にも幕府にも気を遣わねばならない慶喜は、しばしば優柔不断な一面を見せることになる。

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