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ソニー、パソコン覇権戦争で「MSX」が不発に。松田聖子のCMは評判も、パソコンとしては"中途半端"

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ソニー ゲーム機のイラスト
(イラスト:竹田嘉文)
四半世紀にわたる“受難の時”を経て復活を果たしたソニー。だが、かつての「エレキのソニー」と今の「エンタメのソニー」とではまるで別の会社だ。神話に彩られたカリスマ創業世代なきあと、普通の「人々」はいかにエンタメのソニーを築き上げたのか。その転換点に迫る群像劇。

1983年春、ソニー海外事業部の係長、平松庚三は夕食も取らずに御殿山の本社で海外出張の準備をしていた。行き先は米カリフォルニア州のエル・セグンド。バービー人形で知られる大手玩具メーカー、マテルの本社がある街だ。

四半世紀にわたる“受難の時”を経て復活を果たしたソニー。だが、かつての「エレキのソニー」と今の「エンタメのソニー」とではまるで別の会社だ。神話に彩られたカリスマ創業世代なきあと、普通の「人々」はいかにエンタメのソニーを築き上げたのか。その転換点に迫る群像劇。

バービー人形で儲けたマテルが有り余る資金を注いだのが家庭用ゲーム機の「インテレビジョン」。発売は任天堂の「ファミリーコンピュータ」より3年早い80年で、72年に世界初の家庭用ゲーム機「オデッセイ」を発売したマグナボックスやピンポンゲームの「ホーム・ポン」をヒットさせたアタリを猛追した。ちなみにスティーブ・ジョブズはアップル創業前、アタリで働いていた。

マテルはゲーム機事業で、日本ではバンダイと提携していたが、「ウチともやれないか」と声をかけたのがソニー会長の盛田昭夫。マテルがゲーム機を作っていることは日本でほとんど知られていなかったが、盛田はとんでもなく耳が早かった。

アメリカの生活を経験しなければだめだ

61年、ソニーは日本企業として初めてADR(米預託証券)を発行し、アメリカの資本市場に飛び込んだ。63年6月、盛田は子の11歳の英夫、8歳の昌夫、6歳の直子と妻の良子を伴って、部屋が12もあるニューヨーク5番街の超高級アパートに移り住む。

「アメリカ市場で成功しようと思うなら(中略)家族共々アメリカに引っ越して、実際にアメリカの生活を経験しなければだめだ」(盛田の著書『MADE IN JAPAN』)という考えからだ。

1年余りの滞在期間中、盛田はこの豪邸で毎夜ホームパーティーを開き、延べ400人ものエスタブリッシュメントをもてなした。

彼らの懐に入り込んだ盛田は後にいち早くインテレビジョンの話を聞きつけ、「いける」と判断した。盛田から、コンピュータ事業部長の出井伸之に「やれ」とご下命があり、出井から海外事業部の平松に「マテルに行ってこい」と指令が出たのだった。

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