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ソニーの「神の子」久夛良木健が得た天啓。創業者の一人・井深大に見いだされ、運命の技術と邂逅

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「これはいいねえ。 なるほど、先端で一瞬止まるんだ」

ソニー ゲーム機のイラスト
(イラスト:竹田嘉文)
四半世紀にわたる“受難の時”を経て復活を果たしたソニー。だが、かつての「エレキのソニー」と今の「エンタメのソニー」とではまるで別の会社だ。神話に彩られたカリスマ創業世代なきあと、普通の「人々」はいかにエンタメのソニーを築き上げたのか。その転換点に迫る群像劇。

ソニー社長の大賀典雄がそう叫んだ1992年6月24日の「Do it会議」はゲーム業界で今でも語り草だ。しかしよく考えてみると、これは不思議な会議である。

「任天堂に裏切られ、このままゲーム事業を諦めていいのか」と大賀をあおった久夛良木健は当時41歳で、肩書は「PSX準備室長」。当時最若手の事務方だった内海州史(現・セガ社長)によれば、PSX準備室長は部長級。本来、経営方針を決める会議に名を連ねる立場にはない。

四半世紀にわたる“受難の時”を経て復活を果たしたソニー。だが、かつての「エレキのソニー」と今の「エンタメのソニー」とではまるで別の会社だ。神話に彩られたカリスマ創業世代なきあと、普通の「人々」はいかにエンタメのソニーを築き上げたのか。その転換点に迫る群像劇。

一方、久夛良木があおった大賀は、この会議の3年前に創業者の盛田昭夫からCEOの座を引き継いで「社長兼CEO」となり、名実ともにソニーのトップに立っていた。

ゲーム事業に単独参入するのか、しないのか。会社の命運を左右する重大事を決める会議で、久夛良木がトップの大賀を挑発する。普通の大企業では起こりえないことが起こったのは、久夛良木が「神の子」だったからだ。

会社勤めをしようとは思ったことがなかった

久夛良木は50年、東京都江東区で生まれた。父親の武次は熊本出身だが、戦前に親に連れられて日本統治下の台湾に渡った。武次は台北市でいちばん大きな書店を営んでいたが、第2次世界大戦の終結と同時に帰国。江東区に小さな印刷所を構える。経営が軌道に乗り始めた頃、久夛良木が生まれた。

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