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動かなかった県庁、指示が出せなかった危機管理監、立ち上がらなかったオペレーションルーム。能登半島地震2年目に明かされる真実

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能登半島地震には、知られざる逸話がいくつも明かされぬままになっている

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石川県能登半島を襲った能登半島地震から2026年1月1日で2年になる。徐々にだが復旧・復興は進み、生業の再生に汗を流す人々の姿がメディアで取り上げられるようになった。人口流出や少子高齢化が進む能登半島に思いを寄せ、支援の手を指し伸ばす人も多い。
だが、あの地震を「過去のこと」にするのはまだ早い。とりわけ地震直後の現場の状況や石川県庁の対応ぶりがどうであったかについては歴史に刻むべき事実が無数にある。忘れ去りたい人もいるだろう。だが、能登地震の検証は、必ずや、次の大地震の教訓になる。
ノンフィクション作家・山岡淳一郎氏によるデジタル特集「能登 2年目に明かされる真実」の1回目は、地震直後に思わぬ「三重苦」を抱えてしまった石川県庁内部の様相を明らかにする。

【第1回】能登半島地震2年目に明かされる真実(1月1日配信、本記事)
【第2回】被災者を探せ!IT技術者、自衛隊員たちの奮闘(1月1日配信)
【第3回】嘔吐に下痢、過酷すぎた「1.5次避難所」の現実(1月4日配信)
【第4回】馳浩知事インタビュー(Coming Soon)

2024年元日の16時10分、東京・明治神宮に数万人の初詣客が押し寄せていた時、石川県能登地方でM7.6、最大震度7強の地震が発生した。東京の自宅で第一報を受けた馳浩石川県知事は、17時前に千代田区永田町の首相官邸に入った。

18時30分、金沢市の県庁に詰めた徳田博副知事らとオンラインで第1回災害対策本部会議を開いたが、被災した市町からも県からも、情報は上がってこなかった。地震で道路が寸断され、電気・水道・ガスは止まり、寒風吹きすさぶ能登は陸の孤島と化していた。

一方、官邸に駆けつけた松村祥史防災担当大臣(以下、肩書は当時)は、独自の情報を持っていた。自衛隊がいち早くヘリから能登の被災地を撮った映像をもとに多数の「山体崩壊」が起こり、津波被害も起きていることを馳知事に伝えた。16年の熊本地震を経験している松村大臣は、発災後72時間の救助、救命の大切さ、自治体の対応で左右される「災害関連死」を減らすよう訴えた。

災害関連死を減らせ

災害関連死は、劣悪な避難環境での心身への負担や、ライフラインの途絶、医療機関の機能停止などによって引き起こされる。自治体のオペレーションが適切ならば、その数は確実に減らせる。M7.3の熊本地震では、地震の揺れで亡くなった直接死50人に対し、避難生活における災害関連死は222人と4倍を超えた。松村大臣は馳知事に、当時の悔しさを洩らした。

20時30分、馳知事は、経済産業省から出向中だった西垣淳子副知事、NTT出身の中塚健也戦略広報監らと陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地からヘリに乗る。金沢駐屯地で降機し、車に乗りかえ、石川県庁に着いたのは23時22分だった。

翌1月2日、朝7時すぎ、馳知事は消防防災ヘリで上空から被災地の状況を確かめた。8時、被害の大きい6つの市と町に県職員をリエゾン(連絡調整員)として派遣する。岸田文雄首相、林芳正官房長官に連絡し、物資と水の確保、人員の派遣を要請した。

3日には中央省庁の職員が続々と石川県庁にやってくる。その数は約300人に上り“ミニ霞が関”と称されるようになる。馳知事は「なぜ、発災時に石川県内にいなかったのか。対応が遅い」と批判を浴びながら、国とのパイプをつないだ。

中央省庁の職員が続々と入り“ミニ霞が関”と呼ばれるようになった石川県庁(写真:石川県)
 
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