【第2回】被災者を探せ!IT技術者、自衛隊員たちの奮闘(1月1日配信)
【第3回】嘔吐に下痢、過酷すぎた「1.5次避難所」の現実(1月4日配信)
【第4回】数々の批判に馳浩知事が語った「厳しい試練」(本記事)
――能登半島地震の発生から知事の被災地初訪問まで約2週間かかり、もっと早く被災者に寄り添ってほしかったという声が上がりました。また、大規模災害では被災地に現地対策本部が必要と言われていましたが、設置しませんでした。当時、どうお考えだったのでしょうか。
2024年1月2日、発災翌日の朝7時6分から、消防防災ヘリで2時間かけて被災地をすべて回り、上空から膨大な地面の亀裂、家屋の倒壊、道路や護岸の崩壊、河川の氾濫などすさまじい状況を目の当たりにしました。県庁に戻り、全庁を挙げての対応を指示し、被災地に県職員のリエゾン(連絡調整員)を派遣しました。
私は、昼夜を問わず、被災市町の首長からの要望を聞き、県庁に設置された国の対策本部との協議を迅速に行おうと決心しました。被災地と国とのパイプ役が必要です。自分が被災地に入れば、市町の関係者が応接に手間を取られ、災害対応が滞る懸念があった。だから知事室に泊まり込んで、24時間体制で陣頭指揮を執ったのです。
1月9日、岸田文雄首相(以下、肩書は当時)が14日に被災地を訪問し、状況を確認されるとの話があり、私から現状報告と、被災市町の要望をお伝えしたほうがいいと考え、県庁を離れる決断をしました。被災地に県の災害対策本部を置かなかったのは、甚大な被害が1自治体ではなく、6市町の広範囲に及び、インフラの崩壊、ライフラインの途絶などもあり、現実的に難しかったからです。被災地に対策本部を置けば、指揮命令系統がリエゾンとは別建てで国の対策本部につながることにもなり、混乱が予想された。そこも考慮しました。
マニュアルがなく、県職員は動きようがなかった
――初動で、石川県は全庁体制の立ち上げに失敗したとの見方があります。県が公表した「令和6年能登半島地震対策検証報告書」には、〈県が救助の実施主体という意識、全庁体制で災害対応を行うという意識が欠如し、対応が受け身〉と記されています。なぜ県職員は、救助、救援の当事者としての意識を持てなかったのでしょうか。




















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