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動き出した歯車は止まらない、効き過ぎた意地の「高め誘導」。ボルカー議長も激怒、日銀「高め放置」と弁解 「プラザ」から「バブル」へ①

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プラザホテルに勢ぞろいした5カ国蔵相とボルカーFRB議長
プラザホテルに勢ぞろいした5カ国蔵相とボルカーFRB議長(中央)(写真:ロイター=共同)
過去の金融政策・経済政策の検証に取り組む筆者が、当時の政策決定プロセスや当局者たちの人間模様に迫る。【月曜日更新】

日本がデフレに陥ったのはバブルがはじけたからであり、バブル崩壊はその膨張を許した結果である。バブルが膨らんだ背景には、1985年9月のプラザ合意後の長期の金融緩和が絡む。宮澤喜一も「不良債権の問題をたどっていくと、どうしても、きっとプラザ合意のところに行くのだろう」と回想する(『聞き書 宮澤喜一回顧録』)。早いものであの日から40年が経とうとしている。

今回から6回にわたり80年代後半の金融政策を検証する。プラザ合意から87年のルーブル合意に至る政策プロセスは、船橋洋一『通貨烈烈』、軽部謙介『検証 バブル失政』などでほぼ解明済みだが、40年の節目に当たり、バブルに至る道のりをもう一度振り返ってみる。

強い米国と強いドルを標榜したロナルド・レーガン政権は、2期目に入った85年、財務長官の交代を機に国際協調路線へと舵を切る。貿易不均衡の是正と世界経済の成長を目指し、日英独仏の財務相と中央銀行総裁を極秘にニューヨークに集め、ドル高是正とマクロ政策協調を柱とする共同声明を世界に向けて発表した。これが世にいうプラザ合意である。ちなみに開催場所のプラザホテルは、その後ドナルド・トランプの手に渡り、外国資本に転売された。

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