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ブラックマンデーで身動きが取れなくなり、引き締め計画は頓挫。三重野氏「悔いが残った」/「プラザ」から「バブル」へ⑥

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証券会社に集まった投資家たち
未曾有の株価暴落で証券会社に集まった投資家たち(写真:共同)

1987年春。為替安定に向けたルーブル合意もむなしく、円相場は1ドル=145円を割った。前年のアメリカの貿易赤字が過去最高を記録、米議会には対日制裁条項が次々と上程された。真珠湾攻撃以来といわれるほど日米関係が緊張する中、ロナルド・レーガンと中曽根康弘との首脳会談が4月30日にセットされる。

注目の「G2会談」を前に、大蔵省国際金融局長の内海孚が日銀にこんな相談をした。「これ以上の円高は『カウンタープロダクティブ(逆効果)』とコミュニケに書かせたい。そのためには金融緩和が必要だと米側は言っている」。

過去の金融政策・経済政策の検証に取り組む筆者が、当時の政策決定プロセスや当局者たちの人間模様に迫る。【月曜日更新】

過去5回の利下げで公定歩合は史上最低水準にある。理事の青木昭は「これ以上の緩和は無理だ」と即座に拒んだ。総裁の澄田智も米連邦準備制度理事会(FRB)からの利下げ要請を断り、「イナフ・イズ・イナフ(もうたくさんだ)」と漏らした直後である。だが、内海は諦めない。「何もないまま総理を訪米させるのか」と強い姿勢で日銀側に譲歩を迫った。

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