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「銀行の潰し方を研究せよ」、日銀信用機構局の誕生と内部から異論が続出した破綻処理の4原則案 90年代「危機の扉」①

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日銀の初代信用機構局長
日銀の初代信用機構局長を務めた本間忠世氏(写真は理事当時)

今週から1990年代の金融危機を順次振り返る。平成バブルの崩壊が始まった90年5月、後の危機対応で中核的役割を担う部局が日本銀行に誕生した。プルーデンス(信用保持)政策を担う信用機構局(現在の金融機構局)である。初代の主力課長には、後に総裁となる白川方明が指名された。

過去の金融政策・経済政策の検証に取り組む筆者が、当時の政策決定プロセスや当局者たちの人間模様に迫る。【月曜日更新】

信用機構局は、「平成の鬼平」と呼ばれた三重野康の総裁就任から半年後に行われた、機構改革の目玉だった。退任後のオーラルヒストリーで三重野は新局の狙いをこう語っている。

「時代の変化にふさわしい機構を作っていきたいと思った」「不良債権問題についての危機意識というのは(役員は)みんな持っていましたけれども、(中略)私は非常に漠然とではありましたが、かなりの危機感なんです。それはなぜかというと、考査が(中略)驚くことを言ってくるわけです。こういう数字があります、かなり悪いですと」

いずれ考査局だけでは対応できなくなる

それまで取引先金融機関の経営問題はもっぱら考査局が担当してきた。考査局は日銀考査を通じて取引先金融機関の経営状況を定期的にチェックする部局である。

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