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「抜かずの宝刀」をついに抜く、東邦相互銀の救済合併に預金保険を発動 90年代「危機の扉」②

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東邦相互銀行の本店
預金保険の発動第1号となった東邦相互銀行の本店(当時) (写真:東洋経済写真部)

1991年1月。日銀信用機構局が金融機関の「破綻処理4原則」を策定した。金融自由化とバブル崩壊で、「銀行不倒神話」は早晩崩壊するとみていたのである。

4原則は、①実質破綻の金融機関は処理する②大蔵省と日銀が共同して処理に当たる③預金保険の資金援助を活用する④破綻が連鎖する場合は日銀の「最後の貸し手機能」を使う、というものだったが、これに行内で異論が出た。

「破綻処理4原則」の承認

過去の金融政策・経済政策の検証に取り組む筆者が、当時の政策決定プロセスや当局者たちの人間模様に迫る。【月曜日更新】

まず「実質破綻」とは何なのか、と考査局がかみついた。客観的基準がなく、銀行の貸出債権ごとに損失をどう見込むかで数字は変わってくる。「あやふやな概念で破綻処理するというのはいかがなものか」という指摘だった。

3番目の預金保険の活用もすんなりとは認められなかった。経営難の銀行には、当時、「日銀貸し出し」を使って収益支援するのが常道と考えられていたからだ。

市場金利より低い公定歩合が適用される日銀貸し出しは、借り手に確実な収益をもたらす。このため金融界は長くこれに依存し、日銀にとっても“力の源泉”となっていた。一方、預金保険については「大蔵省は使いたくなかったし、日銀でも正当性が認められていなかった」と当時の幹部は語る。

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