
ルーブルでのG7から帰国した宮澤蔵相(写真:共同)
為替安定に向けて1986年10月に公表された日米共同声明の効果は長続きしなかった。87年に入るとEMS(欧州通貨制度)の調整不足を機に西独マルク高・ドル安が進み、これが飛び火する形で円高・ドル安が再燃した。
政府・日本銀行は、東京だけでなくニューヨーク、ロンドン、シンガポール市場でも為替介入に踏み切るなど徹底抗戦したが、87年1月19日、ついに防衛ラインとされた1ドル=150円の大台を割り込む。危機感を抱いた蔵相の宮澤喜一は、急きょワシントンに飛び財務長官のジェームズ・ベーカーと直談判しようと決意した。
大蔵事務次官の吉野良彦から日銀副総裁の三重野康に追加利下げの要請があったのは、この宮澤訪米の直前のことである。
三重野のオーラルヒストリーによると、吉野は「宮澤さんが日銀も協力してくれないかと言っていますけれども、どうですか」と遠回しに聞いてきた。「公定歩合を下げてほしい」といった直截(ちょくせつ)な言い方ではなかったという。
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