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宮澤蔵相の登場と追加緩和、利下げの真相は「やぶの中」、予想もしない展開に翻弄された日銀の現場 「プラザ」から「バブル」へ④

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講演中の宮澤喜一蔵相
講演する宮澤喜一蔵相(1987年当時)(写真:共同)
過去の金融政策・経済政策の検証に取り組む筆者が、当時の政策決定プロセスや当局者たちの人間模様に迫る。【月曜日更新】

プラザ合意から10カ月が経過した。1986年7月の衆参同日選挙で大勝した首相の中曽根康弘は内閣改造を行い、蔵相に宮澤喜一を指名する。宮澤は当時66歳。自民党幹事長となった竹下登、総務会長の安倍晋太郎とともに「ポスト中曽根」を競っていた。

宮澤はかねて人為的な通貨調整を批判していた。プラザ合意から帰国した竹下に「自分が何をしたのかわかっているのですか」と言ったこともある。中曽根はその宮澤に為替安定を命じたのである。

円相場は1ドル=154円台。宮澤は大規模な介入を連日指示したが、「ブラックホールにカネを投げ込むようで、一向に相場は動かない(中略)。本当に情けない思いをしました」と振り返る(御厨貴他(ほか)編『聞き書 宮澤喜一回顧録』)。

宮澤に米財務長官のジェームズ・ベーカーが東京での秘密会談を持ちかけたのは8月だった。

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