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三重野副総裁も知らなかった追加策で、公定歩合は戦後最低水準に 「プラザ」から「バブル」へ③

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当時の澄田智総裁と竹下登蔵相
日銀の澄田智総裁(手前左)と竹下登蔵相(1986年当時)(写真:ロイター=共同)
過去の金融政策・経済政策の検証に取り組む筆者が、当時の政策決定プロセスや当局者たちの人間模様に迫る。【月曜日更新】

プラザ合意後の猛烈な円高・ドル安に対応するため、日本銀行は1986年1月と3月に相次いで公定歩合を引き下げた。だが、内需拡大を求める米国の圧力はまったく収まらない。

「また4月に下げさせられたんですね。これは水面下ではいろいろ問題があった」。オーラルヒストリーでそう語るのは、当時副総裁(のち総裁)の三重野康だ。

円相場は3月の利下げ後に1ドル=175円を突破したが、総裁の澄田智は「利下げ効果を見守っており、追加措置は考えていない」と言い、不動の構えを続けていた。

ところが4月10日、国際通貨会議出席のため訪れた米ワシントンで、米連邦準備制度理事会(FRB)議長のポール・ボルカーと会ってから様子がおかしくなる。

澄田に同行した緒方四十郎(当時理事)のオーラルヒストリーによると、席上、ボルカーは「財政が出てこないような状況だと、金融をさらに一歩進めて緩和する意思はないか」と澄田に持ちかけ、「自分たちの方もやる用意がある」と珍しく手の内を明かしたという。ドル暴落を警戒するボルカーは、日米の金利差を維持すべく再度の協調利下げを狙っていたのだ。

実は三重野は、仮にボルカーから求められても「国内情勢を考えると、もう少し先に延ばしたい」と答えるよう、訪米前の澄田に助言していた。

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