なかなか解けなかった父の謹慎
木訥(ぼくとつ)とした人柄で器量が大きい西郷隆盛に、冷静沈着な策略家の大久保利通――。そんなイメージを持たれやすいが、大久保には意外な大胆さもある。
薩摩藩のお家騒動によって、父は島流しにされて、自身は謹慎生活を余儀なくされた大久保。貧苦にあえいだが、3年の月日が経って、ようやく許されることになる。
だが、髪は真っ白になり、やせ衰えた父は、別人のようだった。島流しにされる前、役人たちに「お前たち油断しないほうがいいぞ。私は隙を見て逃げるかもしれないからな」と言い放った血気盛んな姿は、孤島での過酷な生活でとうの昔に失われたようだ。
変わり果てた父の姿に、大久保は「こんな理不尽な目に2度と遭いたくない……」と立身出世を誓ったことだろう。
長きにわたる謹慎が解けたのは、島津斉彬が薩摩藩11代藩主の座に就き、お家騒動に終止符が打たれたからである。幕府の老中である阿部正弘が働きかけて、斉彬の父で前藩主の斉興は引退に追い込まれている。
しかし、斉彬が藩主になったのは、大久保の父が島流しにされてから、8カ月後のことだ。大久保としても斉彬が藩主となり、すぐに謹慎が解けることを期待したに違いないが、そこから実際に処分が解かれるまでに、実に2年半近くもの月日を要した。
藩主になったばかりの斉彬が、お家騒動の余波が収まるまで待ったのかもしれないが、それにしても長すぎるだろう。単に後回しにされて、忘れ去られていた可能性が高い。大久保家の苦境を思えば、あまりにひどい仕打ちである。
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