そんな中、大久保が接近した久光はといえば、下級藩士から不人気だった。かつて起きた「お由羅騒動」(第2回:嫌われ者「大久保利通」権力を欲し続けた納得の訳」を参照)は斉興が引き起こしたものだが、その斉興に擁立されたのが久光だったからだ。
だが、大久保は狭い世界での評判よりも、時代の潮流を重視した。確かに、今実権を握っているのは久光の父の斎興だが、すでに高齢であり、藩主はまだ若い。そうなると、藩主の父である久光が必ず実権を握るはずだという読みがあった。このときの判断が、大久保の人生を大きく変えることになる。
何とかして久光に近づきたい大久保。しかし、大久保は久光と直接、話せるような身分ではない。どうするべきかと考えたときに、身近で立身出世を果たした西郷の躍進が、頭に浮かんだことだろう。
西郷の場合は、斉彬が新しく藩主となったタイミングで、農政に関する意見書を何度も提出することで、己の存在をアピールした。斉彬の養育掛を務めた関勇助に勧められての行動だったといわれている。気に入られた西郷は、斉彬から「庭方役」というポジションを与えられて、直接対話をすることが許されている。
では、大久保はどうやって久光に近づいたのかといえば、ともに趣味としていた「囲碁」を通じてである。
寺の住職を通じて久光の情報を得た大久保
「久光は碁が好きで、吉祥院の住職に囲碁を習っている」
そんな情報をキャッチすると、大久保はまず住職の乗願に接近を試みている。大久保が幼いころから身を置いた「郷中」に乗願の兄がいたため、乗願を紹介してもらい、彼に碁を習い始めた。
碁を習いに通っていると、乗願から久光の情報が自然と入ってくるようになる。あるとき、久光が『古史伝』という平田篤胤の書いた本を読みたがっていると知ると、利通は『古史伝』をすぐさま手に入れて、乗願を通じて久光に渡した。どうにかして久光と接点を作ろうとする大久保の執念が伝わってくる。
それも、本をただ渡しただけではない。大久保はその本に、あるものを挟み込んでおいた。それは、政治への意見書と、のちに「誠忠組」と呼ばれる自身が主導する藩内組織の名簿である。
じわりじわりと久光との距離を詰める大久保。ついに「おぬしに興味を持ったらしい」と乗願から聞かされたときは、心の中でガッツポーズをしたことだろう。そして、安政6年(1859)9月、斉興は死去。久光が藩政後見の座に就くことになった。
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