下級藩士「大久保利通」が西郷に倣った出世の極意 有力者に取り入るのが最初はうまくなかった

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西郷の能力に目をつけて自分のそばに置いた斉彬だが、どうも大久保のことは、それほど評価していなかったようだ。西郷だけではなく、若手の人材が登用される中で、大久保はさほど恩恵を受けていない。

安政4(1857)年、大久保は28歳にして藩主の身の回りの世話をする「御徒目付」(おかちめつけ)の役に、西郷と同じく任命されたものの、相変わらず鹿児島で取り残されていた。年が違うとはいえ、西郷は4年前の安政元(1853)年に斉彬とともに江戸へ。将軍継嗣問題にも奔走し、すでに名を広く知らしめていたことを思えば、その差は歴然である。

大久保が江戸に呼ばれなかったのは、西郷の意図も働いていたようだ。国元にとどまっている大久保について、仲間の薩摩藩士から「大久保も江戸に来られるように、働きかけないのか」と聞かれたときに、西郷はこう答えている。

「私の代わりは大久保しかいない。何かが起きたときに、2人とも江戸で倒れるわけにはいかないではないか」

西郷が大久保をほかの誰よりも頼りにしていたことがわかるが、大久保にその真意は伝わっていたのだろうか。ひたすら権力に愛されたというイメージが強い大久保だが、この時点では藩の有力者にうまく取り入ったのはむしろ西郷のほうだった。

斉彬の死によって事態が一変

そんな中、名藩主としてその活躍を期待された斉彬が突然、亡くなってしまう。炎天下の軍事練習中に熱を出し、約1週間後に帰らぬ人となった。斉彬の死で事態は一変し、西郷と大久保の運命も大きく変わっていく。

斉彬の急死を受けて、西郷が己の命を絶とうとまで失望する一方で、大久保は斉彬の弟、久光への接近を図ろうと考えた。

しかし、これは一種の賭けでもあった。というのも、斉彬の死後、隠居に追い込まれた斉興の勢力が再び盛り返していた。久光の長男である忠義が藩主となったが、まだ19歳と幼かったため、実質的な藩政は斉興が掌握。緊縮財政を掲げた斎興は、亡き斉彬が進めた軍制改革をことごとく中止し、軍制の一部は古典的なものに戻すことさえしている。

また斉彬が亡くなる前に、江戸では井伊直弼による「安政の大獄」が開始された。次々と一橋派や志士たちが捕まえられ、処罰されていく。大弾圧の嵐に薩摩藩内は急速に保守化していき、斉彬が目指した幕政改革などはもってのほか、という沈鬱なムードが漂い始める。西郷が薩摩藩の行く末に失望して、自ら命を絶とうとまでしたのも無理はないだろう。

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