倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。
しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。
大久保利通は、はたしてどんな人物だったのか。その実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第4回は、大久保と西郷の関係について解説する。
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<第3回までのあらすじ>
幼いときは胃が弱くやせっぽちだった大久保利通。武術はできずとも、薩摩藩の郷中教育によって後に政治家として活躍する素地を形作った(第1回)。が、21歳のときに「お由羅騒動」と呼ばれるお家騒動によって、父が島流しになり、貧苦にあえぐ(第2回)。ようやく処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に趣味の囲碁を通じて接近し、取り入ることに成功する(第3回)
幼いときは胃が弱くやせっぽちだった大久保利通。武術はできずとも、薩摩藩の郷中教育によって後に政治家として活躍する素地を形作った(第1回)。が、21歳のときに「お由羅騒動」と呼ばれるお家騒動によって、父が島流しになり、貧苦にあえぐ(第2回)。ようやく処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に趣味の囲碁を通じて接近し、取り入ることに成功する(第3回)
地道な手段で島津久光に近づいた大久保
「ここではない、どこかへ行きたい」
社会が乱れると、そんなエネルギーに満ちた若者たちがうごめき始める。幕末の世に、大久保利通と西郷隆盛という2人の傑物が生まれたのも、まさに乱世ならではといえよう。問題はいかにして、自分の名を上げるかである。
先に世に出たのは、西郷のほうだった。自分と同じ下級藩士にもかかわらず、薩摩藩11代藩主の島津斉彬に引き立てられていく姿をみて、3歳年下の大久保利通は斉彬の弟、島津久光のほうに近づいていく。
身近な成功者を手本にするのは、それほど意外な話ではない。だが、方法論を思いついても、実際には行動に移さない人間がほとんどである。ましてや、行動を継続する人間となるとごく少数であり、大半があきらめてしまう。
だが、大久保は違った。「趣味の囲碁を通じて久光に近づく」という、あまりにも地道な手段を選び、成果を得られるまでやり続けた。その結果、見事に自分の存在を認知させることに成功している。
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