【追悼】千玄室氏(享年102)、稀代の「行動派家元」を生んだ"特攻隊"そして"同志社"という2つの原体験

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千玄室
8月14日に亡くなった千玄室氏。その人生は、茶人の枠を超え、国際的な平和活動家としての側面を持っていた(写真:時事)
終戦記念日の前日に当たるお盆の8月14日、茶道裏千家前家元の千玄室氏(以降、千氏)が京都市内の病院で逝去した(享年102)。
「5月に転倒し腰を強く打ち、入院していた」と報じられたが、筆者は6月1日に東京で千氏に会った際、つえすら使わずに歩く矍鑠(かくしゃく)とした姿を拝見している。それだけに、この訃報は今も信じがたい。
千氏は茶道を通じ、生涯にわたり戦争のない世界を訴え続けた。その人生は、茶人の枠を超え、思想家、教育者、そして国際的な平和活動家としての側面を持っていた。本稿では、千氏の102年の生涯について、前後編に分けて振り返っていきたい。
後編:「茶道は未来をつくるためのもの」、千玄室氏が102年の生涯で伝え続けた《和敬清寂》の精神
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平和活動の原点となった特攻隊での経験

千氏の人生を語るうえで、特攻隊での経験は避けて通れない。1943年、同志社大学在学中に特攻隊員(第14期海軍飛行科予備学生)を志願して入隊。徳島海軍航空隊で特攻訓練を受けた。

出撃命令が下る直前に終戦を迎えたが、訓練中には仲間たちに頼まれ、出撃前の隊員に茶をたてて振る舞った。やかんの湯と配給のようかんを使った即席の茶席であったが、そこには千利休の精神が宿っていた。「戦場で茶をたてる行為は、命の尊厳を守る最後の祈りだった」と、千氏は振り返っている。

訓練中、のちに俳優として「水戸黄門」を演じる西村晃氏と出会った。2人乗りの飛行機に乗り、訓練の日々が続いた。前に千氏が、後ろに、西村氏が乗っていた。あうんの呼吸が求められる。息も合ってきた終戦直前、西村氏は転属を命じられた。それ以来、2人は会えず、千氏は西村氏が出撃により亡くなったものと思っていた。

ところが戦後、運命の再会を果たす。1946年、文部省(現・文部科学省)を訪れた際、メーデーのデモ行進に遭遇した。その中に、「千じゃないかー」と大きな声で叫ぶ男がいた。劇団民藝の前身にあたる東京芸術劇場研究所の研究生になっていた西村氏だった。

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