【追悼】千玄室氏(享年102)、稀代の「行動派家元」を生んだ"特攻隊"そして"同志社"という2つの原体験

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出撃機の不具合により、奇跡的に生き残って帰ってこられた。「生きていたのか」と歓喜にあふれた。お互い旧交を温めた。その後も戦友として強い絆で結ばれる。そして、意気投合したかのように、ある誓いを交わした。

「どちらかが先に亡くなったら、生き残った方が葬儀委員長を務めるんだ」

1997年4月に西村氏が亡くなった際(享年74)、千氏はその約束どおり葬儀委員長を務めた。

「みんな本当は死にたくなかった。『お母さーん』と叫ぶ声が耳の奥に残っています。私は生き残った者として、茶道を通じて彼らの思いを伝え続けなければならない」

この「忸怩(じくじ)たる思い」が、千氏の平和活動の原点となった。

茶道の家元がキリスト教の同志社に入ったワケ

このような思いをつかさどる基礎を形成したのは、(旧制)中学から大学までを過ごした同志社での教育であった。茶道の家元を継ぐ立場でありながら、なぜキリスト教系の学校を選んだのか。この問いに、千氏は生前こう答えている。

「私は生まれて初めて父(第14代家元・淡々斎)に逆らったのは中学受験前でした。府立一中を目指していたので、『(うちは禅の心を受け継ぐ茶道の家元なのに)なぜ、耶蘇教の同志社へ行かなくてはならないのですか』と尋ねると、父は『新島八重さんが第13代家元・圓能斎に師事されたので、同志社とは縁が深まった。同志社へ行きなさい』と命じたのです」

父の淡々斎は、同志社の創設者・新島襄の妻である八重が千家にゆかりがあること、そして同志社が戦前から英語教育に力を入れていたことに着目していた。茶道の国際化を見据えていたのだろう。

実際、千氏は同志社中学で国際的な環境に触れ、同志社大学卒業後にハワイ大学へ留学。茶道を通じて世界と対話する人生を歩むことになる。

千家にとって、同志社との縁は進学先以上の意味を持っていた。3代にわたり、茶道という伝統文化の家元が異なる宗教的背景を持つ教育機関に身を置いたことは、文化の越境と融合を象徴している。同志社で得た英語力、聖書の理解、自由な議論力は、千氏にとって国際活動の基盤となった。キリスト教の「愛と奉仕」の価値観は、茶道の精神にも通じるところがあった。

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