「オーストリア・スラブ主義」の代表者で、「チェコ民族の父」と呼ばれるフランチシェク・パラツキー(1798〜1876年)は、ヨゼフ・ルクル・フロマートカと同じホドスラヴィッツェ村の出身で、プロテスタント教徒である。
パラツキーは自己の信仰をルター派だと述べていたが、これは便宜的なもので、実際はフス派である。パラツキーとフロマートカは親族だ。
チェコの重要なシンボル「フス派」
フロマートカには、パラツキーが提起した問題を継承しようとする意識が強い。パラツキーはチェコ人の特徴をヤン・フス(1369〜1415年)による宗教改革に求めた。フス派の反乱はカトリック教会によって鎮圧されたことになっていたが、フス派はチェコの山間部に隠れ、信仰を維持した。パラツキーやフロマートカの出身地である北モラヴィアの山岳部は、隠れフス派の拠点の1つだった。
フス派の反乱の100年後に宗教改革が起きると、フス派もプロテスタント教徒と名乗るようになった。ハプスブルク帝国はカトリックが国教だったが、宗教政策は寛容で、ルター派と改革派(カルヴァン派)は国家によって存在を認められていた。
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