当初はやる気がなかった?50歳を過ぎた渋沢栄一が「女子教育」に力を入れた背景 

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渋沢栄一 女子教育
渋沢栄一像(写真:Caito / PIXTA)
年を重ねても、生涯現役で働き続ける─―。「人生100年時代」を迎えた今、そんな生き方がスタンダードになりつつあります。 しかし、難しいのが、張り切りすぎて若手の邪魔をしたり、時代錯誤の価値観を持ち出したりすれば、たちまち「老害」扱いされてしまうということ。
老害だと迷惑がられることなく生涯現役でいるには、どうするべきなのでしょうか。その一つの答えとして、渋沢栄一の生き方が参考になりそうです。著述家の真山知幸氏の新著『大器晩成列伝 遅咲きの人生には共通点があった!』から一部抜粋・再構成してお届けします。

当初はやる気がなかった事業に燃えた理由

渋沢栄一は激動の明治期において、500社もの会社経営に携わりました。「資本主義の父」と呼ばれるのにふさわしい八面六臂の活躍です。しかし、あまりに多岐にわたる分野で貢献しただけに、渋沢が行った1つひとつの事業は、やや埋もれがちです。

特に渋沢が50代にして、教育分野において画期的な支援活動を行ったことは、それほど知られていません。それは「女子への高等教育の充実」です。今でこそ、女性の社会進出を促す声が高まって久しいですが、渋沢が駆け抜けた明治時代は、男尊女卑が公然と行われていました。

そんななかで、女子の高等教育に早々と着目した渋沢の先見性には驚かされますが、実のところ、当初はまったくやる気がなかったそうです。女学校の校長だった成瀬仁蔵から、女子大学の設立について相談されたときに、渋沢はこんなことを言いました。

「私は漢籍で修養してきた人間だから、『女子と小人は養い難し』という考えを持っている」

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