当初はやる気がなかった?50歳を過ぎた渋沢栄一が「女子教育」に力を入れた背景
・33歳――大蔵省から実業家に転身
大蔵省で租税を扱う仕事をしてほしい─。ある日、東京の太政官に呼び出され、いきなりそういわれた渋沢はすっかり面食らってしまいます。
なにしろ税のことはまったくわからないし、この頃、渋沢は隠居していた慶喜のもとで生涯を送ろうと考えて、静岡藩で財政改革に着手したばかりでした。大隈重信のもとに出向いて、辞退の意向を告げると、渋沢はこんな言葉をかけられました。
「しかしその仕事は、わずかに静岡藩の一部に限られている仕事である。ところが、われわれがこれからやろうという仕事は、そんな小さなものではない。日本という一国を料理するきわめて大きな仕事である」
そこまで期待されれば、渋沢も引き受けざるをえませんでした。ただし、条件として「改正掛」という改革のための部署を新たに設立し、自分で人材発掘をさせてほしいと要望しました。
それが認められると、渋沢はのちに「日本郵便制度の父」と呼ばれる前島密や、「日本造船の父」と呼ばれる赤松則良らを改正掛に登用。意欲満々に、3日も4日も徹夜しながら、全国測量を企画し、租税の改正を推進しました。
自分の役目を振り返った渋沢
明治4(1871)年からは、大蔵卿には大久保利通、大輔には井上馨が就任。渋沢は大蔵大丞という役職が与えられ、さらに辣腕を振るいました。
同年に廃藩置県が断行されると、大蔵省で抱える仕事がさらに増加。渋沢は多忙を極めます。なにしろ、陸海軍の費用が増加し、文部省や司法省などあちこちからも支出を求められるなか、それに対応するのは大蔵省だけです。
しかも、歳入がまったく追いつかず、財政問題はいよいよ深刻になりつつありました。渋沢はいま一度、自分の役割を振り返りました。
「今の形で大蔵省の会計を携えていくことは、自分には目的が欠けている」
渋沢が頭にずっと描いていたことを、いよいよ実現するタイミングがやってきました。それは、産業の発展です。井上とともに大蔵省を辞した渋沢。海外で「bank」と呼ばれていた金融機関をどう日本語に訳するかに苦心して、ついに決めました。
「銀行」。これこそが、紆余曲折を経た渋沢が実業家として飛躍する、最初の舞台となりました。33歳にしての大転換です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら