当初はやる気がなかった?50歳を過ぎた渋沢栄一が「女子教育」に力を入れた背景 

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女性と徳のない人間は、近づけると図に乗るし、遠ざければ怨むので、扱いにくいものだ――。渋沢の旧態依然とした見解には、成瀬も「あなたまでがそんなことを言われては困る」と悲嘆したそうですが、無理もありません。渋沢もまた当時の男尊女卑の価値観に染まりきっていたのです。

もし、このままの考えを持ち続ければ、渋沢ですらも現代では「老害」と疎まれたかもしれません。ところが、渋沢の強みは「自分を変えられる」ということ。50代にしてもなお、渋沢は大胆な自己変革に成功しているのです。

江戸への遊学で価値観が一変

・23歳――過激な思想に走って郷里から追われる

渋沢は人生の局面局面でドラスティックな変化を迫られて、その都度、見事なまでに対応してきました。ポイントを挙げながら振り返っていきましょう。

実業家として名をはせた渋沢ですが、実家は農家で、幼いころは家業の農家や藍玉製造、養蚕を手伝っていました。

しかし、江戸に2カ月ほど遊学したことで、その価値観は一変します。尊王攘夷に心を動かされた渋沢は、横浜を焼き討ちにして、外国人を片っ端から斬殺するという、恐るべき計画を立てます。それだけではありません。襲撃の前に群馬県高崎市にあった高崎城を乗っ取り、兵を整えてから横浜への進軍も考えていたのです。

そんな現実味のない荒唐無稽な計画は、すでに尊王攘夷活動に奔走し、その限界を感じていた従兄弟の尾高長七郎から止められて断念します。すでに実家と縁を切っている渋沢は、従兄弟の渋沢喜作とともに、京都や江戸に出向いて、食い扶持を探すことになりました。

・24歳――「幕府をつぶす」はずが一橋家に任官

紆余曲折を経て、渋沢と喜作は一橋家に仕官します。当主は、のちに最後の将軍となる徳川慶喜です。あれだけ尊王攘夷では「幕府を倒す」と言っていたことを思えば、意外な「就職先」です。

現に喜作は、当初「今になって幕府と深い関わりのある一橋に仕官するということになれば、『とうとう行き場所がなくなって、食べるために仕官した』と言われるだろう」と抵抗します。

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