当初はやる気がなかった?50歳を過ぎた渋沢栄一が「女子教育」に力を入れた背景 

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・40代――実業家として羽ばたき、女子教育にも尽力

大蔵省を去る道を選んだ渋沢。これまでも何度となく、行く当てがなくなることはありました。そのたびに「これからどうするべきか」を考えあぐねたものですが、このときばかりは違いました。

明治維新による近代化の流れの中で、渋沢の実績と経験を考えれば、活躍の場は無限にあったといってよいでしょう。

先輩や友人からは「官を辞職して民間に行くなんてもったいない」という反対も寄せられました。渋沢は「もし私に働きがあるとすれば、なおさら官界を去らなければならない」として、こう説明しました。

「もし人材がみな官界に集まり、働きのない者ばかりが民業にたずさわるとしたら、どうして一国の健全な発達が望めましょう」

さらに、渋沢は愛読書の『論語』を引き合いに出して、こう決意を語っています。

「私は商工業に関する経験はありませんが、『論語』一巻を処世の指針として、これによって商工業の発達を図ってゆこうと思います」

明治6(1873)年、日本初の銀行となる第一国立銀行(みずほ銀行の前身の1つ)を発足。以降、渋沢栄一のもとには、さまざまな事業に関する相談が寄せられました。

女学校設立を持ち掛けられた

40代と50代は実業家として、ありとあらゆる分野の事業に携わったといってよいでしょう。そんななか、冒頭のように成瀬から女学校設立を持ち掛けられたのは、渋沢が56歳のときのこと。渋沢としては、女性も教育が必要だとは思いながらも、社会進出を促すことには、慎重な姿勢を示していました。

それでも成瀬が熱心に「女子を人として、婦人として、国民として教育する」というモットーを語るので、渋沢も考えを変えていきます。ちょうど数回のアメリカ視察旅行を通じて、渋沢が社交界の夫人たちと交流を持ったことも、価値観をアップデートさせるのに役立ったようです。『成瀬先生追懐録』で、渋沢は成瀬との思い出をこう語っています。

「多少は言い争うようなこともありましたが、段々と成瀬君の熱心な精神に引き入れられていったのと、自分が最初疑問をしていたことも次第にわかってきたので、ついには、これでなくてはならぬ、と考えるようになってきました」

渋沢は、日本初の女子大学である日本女子大学校(現在の日本女子大学)の創立時から発起人に名を連ねました。そして明治34(1901)年に記念すべき開校を迎えます。渋沢が61歳のときのことです。

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