当初はやる気がなかった?50歳を過ぎた渋沢栄一が「女子教育」に力を入れた背景 

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

しかし、渋沢は攘夷活動で逮捕された仲間に思いを馳せながら、「貧乏な浪人の立場よりも一橋家の家臣のほうが、仲間を救い出せる可能性が高い」と反論。こう結論づけて、喜作を説得しています。

「一橋家へ仕官する選択は、案外、一挙両得の上策であろうと思われる」

状況に応じた、この柔軟性こそが渋沢の武器です。何が起こるか予想できない、激動の幕末では、特に大事なことでした。一橋家で渋沢は、出入口の番人や渉外の事務などの任務をこなしながら、一橋家の人材登用や財政改革でも力を発揮します。

その後、将軍となった慶喜から推薦を受けて、渋沢はパリで行われる万国博覧会に同行。そこで海外の進んだ文化や文明を目の当たりにして、「開国論者」「近代論者」へと変貌していきます。

幕府の衰亡、大隈重信との運命の出会い

・28歳――時代のうねりの中で呆然自失

尊王攘夷活動に傾倒したのが10代後半から23歳の頃で、一橋家に仕えたのが24歳。そして、パリ万博に随行したのが27歳のことです。30歳を迎えるまでに、大きな価値観の転換を行った渋沢でしたが、むしろ変化を迫られたのは、それから後のことです。

徳川慶喜が政権を朝廷に返したらしい――。そんな衝撃の知らせを、渋沢はパリで聞くことになります。

「ともかくも帰国して、幕府の衰亡のありさまを目撃し、かつ自分の方向性をも定めよう」

そう決意した渋沢は帰国を果たします。聞けば、かつて行動をともにした従兄弟の喜作は函館にいるといいます。明治新政府と戦うつもりのようです。

なるほど、幕臣としての使命を果たす。その生き方は美しいかもしれません。しかし、渋沢は冷静に考えて、無駄死になるとしか思えませんでした。

とはいえ、仕えていた幕府はすでに崩壊しました。先行きが見えないことには慣れているものの、時代が丸ごと変わったのは初めてのことです。

「いったいどのように生きていくかという点については、ずいぶん行き詰まってしまった。別に他人より優れた才能や技術があるわけでもない」

28歳にして途方に暮れた渋沢。そんなとき、渋沢を歴史の表舞台に引っ張り出す人物が現れます。総理大臣を2度も務めて、「円」を創始することになる大隈重信です。

次ページはこちら
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事