大河「べらぼう」外国船を防げ!失脚させられるも優秀なのは確かな松平定信が江戸を守るために打ち出した仰天プランとは
松平定信は外国との貿易をしたくなかった
寛政4年(1792)9月、ロシア帝国の軍人で、ロシア初の遣日使節アダム・ラクスマンが根室に来航します。日本との通商を希望する信書を手渡すためやって来たのですが、徳川幕府はロシアとの通商を望まず、最終的にラクスマン一行は、オホーツクに去っていきました。
当時の幕府の老中首座は、松平定信でしたが、彼は外国との貿易を好みませんでした。オランダ・中国(清朝)との貿易も縮小しています。必要のない「玩器と有用の銅」を交換する貿易はいかがなものかと定信は考えていたのです。長崎は海外との交易で潤っていたのですが、外国との貿易で出た利益がなくともやっていけるように、新田開発や生業を発展させることも必要ではないかとも構想していたのです。
しかし、そんな定信がラクスマン来日時には、「ロシアとの通商をやむなし」との考えに至ります。もちろんそれは、手放しで通商賛成というわけではありません。ラクスマンは漂流民の大黒屋光太夫らを送還するため、江戸行きを強硬に主張しますが、それが定信に「消極的開国策」を決意させたとされます(前述のように、ラクスマンは江戸や長崎に来航せず、オホーツクに去ったため、開国策は実行せずに済みましたが)。
つまり、定信は外国船が江戸に来航することを嫌がったのです。
なぜか。それは、幕府の海防体制が整っていなかったからです。ロシア船の来日は、定信に海防の重要性をさらに意識させたと思われます。



















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