「そして、喜多川歌麿は蔦重のもとを去った」 歌麿をスターの座に押し上げた”蜜月時代”の傑作美人画と最強タッグ決別の背景

遊女描いた美人画の秘密
寛政4・5年頃(1792・1793年)、喜多川歌麿は、コンパクトな美人画組物(6枚程の小組物)を描いています。遊女を描いた「玉屋内 まき絹」(蔦屋刊行)もそのひとつです。
この組物には「玉屋内 まき絹」「扇屋内 花扇」「扇屋内 滝川」などのように、妓楼(遊女屋)や遊女の名が記されています。また、狂歌も記されています。この「遊女絵」は遊女の姿を描いているだけでなく、妓楼名をも書き込んでいることに「秘密」があると言われます。

そう、妓楼を宣伝する役割をも果たしているのです。これは、この「遊女絵」制作には、妓楼の経営者がスポンサー(後援者)になっていることを示しているといいます。
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