喜多川歌麿が描く「美人画」が評判を呼んだ理由 評判だった美女を次々描く歌麿 どんな作品だったのか

評判の美女を描いた喜多川歌麿の作品
寛政初年(寛政4年から6年頃。1792年から1794年)において、蔦屋から刊行された浮世絵師・喜多川歌麿の美人画は、当時、評判の美女を描いたものもありました。
この当時は、市井で評判になっていた美女を取り上げる媒体が人気でした。寛政5年(1793)8月に江戸で売り出された『水茶屋百人一笑』もその1つです。
これは、水茶屋(道路や寺社の境内などで、茶などを飲ませて休息させた店)で働いていた看板娘(美女)にスポットを当てたもの。看板娘に対する想いを狂歌にしてつづった「評判記」です。
例えば両国米沢町の「高島おひさ」(17歳)には「春すぎて夏ぞすずしき水茶屋の 名も高しまのおひさうつくし」との歌が詠まれています。一枚摺りの評判記である『水茶屋百人一笑』は、人気で、江戸中で売り歩かれたようです。
水茶屋の美女を取り上げたものが評判となったのは、何もこれが初めてではなく、先例がありました。明和年間(1764〜1772年)には、笠森稲荷の「鍵屋おせん」、浅草の楊枝屋で働く「柳屋お藤」、浅草水茶屋の「蔦屋およし」などを描いた浮世絵がヒットしています。
彼女らは「明和三美人」として有名です。そのうち、「おせん」(お仙)を描いたのが、浮世絵師・鈴木春信です。
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