【蔦屋重三郎×歌麿×写楽】謎の浮世絵師・東洲斎写楽デビューの裏にあった奇抜な戦略!歌麿と決別後、蔦重が重用した"活動期間10カ月の天才"

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小
浮世絵ができるまで摺りの工程
浮世絵ができるまで摺りの工程(写真:mandegan / PIXTA)
今年の大河ドラマ『べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~』は横浜流星さんが主演を務めます。今回は蔦屋重三郎が入れ込んだ東洲斎写楽のデビュー秘話を解説します。
著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。

蔦屋重三郎×歌麿×写楽の三角関係

寛政5・6年頃(1793・1794)、それまで蜜月関係にあった蔦屋重三郎と喜多川歌麿は袂をわかったと言われています。

その理由については諸説ありますが、他の版元からの勧誘が強くなり、歌麿が蔦屋を去ったというもの、蔦屋が東洲斎写楽を重用し出したことに、歌麿が不満を募らせたという説があります。

それまで、歌麿は蔦屋から多くの作品を刊行してきましたが、蔦屋だけから作品を発表していたわけではありません。蔦屋以外の版元からも、作品を出しているのです。それは、寛政6年(1794)頃から、特に強まるとされています。

喜多川歌麿画『娘日時計・午ノ刻』
蔦屋重三郎以外の版元から出版された喜多川歌麿画『娘日時計・午ノ刻』(画像:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

重三郎と東洲斎写楽がいつ出会ったのか、はっきりしたことは分かっていません。浮世絵師・東洲斎写楽が描いた絵というと役者絵です。そして、彼が残した絵(錦絵)は、百四十数点。しかもそれらの作品は、寛政6年(1794)5月から翌年(1795)1月という僅か約10カ月ほどの間に制作されたと考えられているのです。

次ページはこちら
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事