まだまだ無名だった「喜多川歌麿」 大田南畝や恋川春町を宴に呼べた理由 《宴開催の裏にいた人物》とは?

喜多川歌麿と名乗るように
天明元年(1781)正月に刊行された黄表紙『身貌大通神略縁起』(版元は蔦屋重三郎。作者は戯作者・志水燕十)で初めて「歌麿」を名乗った浮世絵師・喜多川歌麿。歌麿は、それまでは豊章と号していました。
その翌年(1782)の秋、歌麿は忍岡(上野)において、戯作者や浮世絵師を招いて、宴の席を設けます。
そこに集まった人々は、大田南畝(四方赤良)・朱楽漢江・恋川春町・朋誠堂喜三二・志水燕十などの戯作者、北尾重政(歌麿のもう1人の師匠)・勝川春章・鳥居清長といった浮世絵師たちでした。
歌麿は、それまでにも、有力版元の西村屋から刊行される黄表紙に何点か挿絵を描いていましたが、同じ絵師の鳥居清長と比べて重用はされませんでした。そういった経緯から西村屋をある意味、見限り、蔦屋重三郎と組もうとしたのが、歌麿だったのです。その記念すべき作品が、前述の『身貌大通神略縁起』でした。
ただ、当時の歌麿はまだ著名ではありませんし、ヒット作があったというわけではありません。そんな歌麿が、大田南畝や恋川春町といった大物戯作者を、宴に呼ぶことなど、普通はできないでしょう。
確かに、宴の主催者は歌麿ですが、その裏に何かある、誰かいると思うのが、普通です。
では裏にいた人物とは、誰か。勘のよい人なら、もうお気づきだと思うのですが、それこそ、蔦屋重三郎ではないでしょうか。歌麿のもう1人の師匠とも言うべき、北尾重政も大きく絡んでいたかもしれません。
では、何のために、重三郎らは、大物文化人を招き、歌麿主催の宴の席を設けたのでしょう。
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