まだまだ無名だった「喜多川歌麿」 大田南畝や恋川春町を宴に呼べた理由 《宴開催の裏にいた人物》とは?
それはさておき、天明年間の美人画界は、鳥居清長の手中にあったのでした。清長は西村屋(与八)と組んで、力作を発表していきましたが、蔦屋重三郎はそれをただ黙ってみていたわけではありません。
天明3年(1783)には美人画帖『吉原傾城 新美人合自筆鏡』を刊行しています。作者は、北尾政演(山東京伝)です。「吉原傾城」とは、吉原の遊女のことで、本作品は、そうした遊女を描いた美人画集です(詩歌も添えられています)。
歌麿が清長を意識した作品も
また、歌麿は「青楼仁和嘉女芸者之部」(遊女を描いた錦絵。1783年)を蔦屋から刊行しています。歌麿が美人画の世界で、人々に知られるようになったのは、この「青楼仁和嘉女芸者之部」が刊行された辺りからだと言われています。それ以前は、清長に及ぶべくもなかったのです。ちなみに、清長は、歌麿の1歳年上でした。
歌麿の作品(美人画)には、清長を意識して、清長の作風に似せているものもあります。
「青楼仁和嘉女芸者之部」と同じ頃に製作されたと思われる「四季遊花之色香」に描かれた女性を見たら、そのことがわかります。
長身で均整のとれた体、細い目と細い眉毛、真っ直ぐな鼻筋などは、清長が描いた美人たちと似通っています。ある意味、清長の影響下にあったともいえる歌麿。歌麿とその後援者・蔦屋重三郎は、どのように清長に対抗していくのでしょうか。
(主要参考引用文献一覧)
・松木寛『蔦屋重三郎』(講談社、2002)
・鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(平凡社、2024)
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