まだまだ無名だった「喜多川歌麿」 大田南畝や恋川春町を宴に呼べた理由 《宴開催の裏にいた人物》とは?

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理由は複数あると思います。1つは、無名に近い絵師・歌麿を大物戯作者と引き合わせ、関係を築かせること。2つ目は、大物戯作者と関係を結ばせたうえで、彼らと歌麿にタッグを組ませること。つまり、戯作者に作品(黄表紙など)を書かせ、そこに歌麿が絵を描くということです。

重三郎は、歌麿の絵の才能を見抜いていたからこそ、わざわざ、宴を開かせて、歌麿とほかの文化人との関係を構築させ、彼らの才能を融合させた新たな作品を生み出させようとしたのでしょう。

その証拠に、この宴(1782年)以降、歌麿は、宴に参加していた、朋誠堂喜三二の作品に絵を描くようになるのです。

当時人気を博していた「鳥居清長」

一方で、当時(天明期)、人気を博していた浮世絵師は、歌麿ではなく、鳥居清長(1752〜1815)でした。

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鳥居清長ゆかりの回向院(写真: SHIMA / PIXTA)

清長は、江戸の書肆(本屋)・白子屋市兵衛の子として、生を受けたと言われています。鳥居派3代目当主・清満(浮世絵師)の弟子となり、修業。当初は、役者絵を中心に描いていたようです。

しかし、安永年間の後期には、次第に役者絵から美人画のほうに、力点を移していきます。

そして、天明4年(1784)頃には、浮世絵は「北尾重政・勝川春章・鳥居清長……」(洒落本『狂訓彙軌本紀』)と記されるまでになるのです。

当時、清長は30代ですが、早くも、大御所に次ぐ立場をキープしていることがわかります。

そんな清長の代表作というと、例えば『当世遊里美人合』(天明年間に清長が製作した美人画集)、『風俗東之錦』(江戸の名所・風俗、美女を描いた)、『美南見十二候』(品川の遊女の姿を描いた美人画)などが挙がるでしょう。

これら天明年間に製作された3作品は「清長三大揃物」と称されています。清長は、こういった作品で、長身で健康的な「美女」を描き、人気を博したのでした。清長が描いた長身の美人たちは、近代に入り「天明のヴィーナス」(江戸のヴィーナス)と絶賛されることになるのです。

彼が描いた美人画を見てみると、例えば『当世遊里美人合』に描かれた女性を見ても、彼女らは、皆、スラリとして背が高く(八頭身美人)、目やまつ毛は細い。清長は、こうした「八頭身美人」と江戸の名所・風景とを掛け合わせて描いたりもしたのです。

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