蔦屋重三郎の功罪!写楽はわずか10カ月で消息を絶った…使い潰され、「芸術上の崩壊現象」とまで酷評されるようになったワケとは

蔦屋重三郎×写楽、怒涛の刊行
寛政6年(1794)5月、東洲斎写楽は、蔦屋から役者絵を30種近くも同時に刊行し、鮮烈なデビューを果たします。
写楽の役者絵は、江戸にてかなりの売れ行きだったようで、蔦屋と写楽は、次なる企画に取り組みます。同年の7月から8月にかけて、新たな作品を刊行したのです。
写楽の第2期の作品は「けいせい三本傘」を描いたもの。「二本松陸奥生長」と「桂川月思出」を描いた作品。「神霊矢口渡」と「四方錦故郷旅路」を描いた作品でした。
冒頭の第1期の作品群は大首絵(容貌を中心にして画面構成されたもの)でしたが、第2期の作品は全身像となっていました。
写楽は「歌舞伎劇のなかで、役者達が造りだす人体による造形美、あるいは形式美の表現」にこだわり「劇中のさまざまな場面から、彼の気に入った型やポーズを抽出し、一点一点画面構成に綿密な配慮を用いながら、変化にとんだ多彩な作品を展開」(松木寛『蔦屋重三郎』講談社、2002年)させたのでした。

例えば、寛政6年7月、河原崎座上演(二番目狂言)の「桂川月思出」のお半と長右衛門、道行の場を描いた作品を見ても、長右衛門は立ち止まり、引き締まった表情をしています。一方、お半(女性)は、長右衛門にもたれかかっています。お半の顔はどこかあどけない。
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