蔦屋重三郎と組んだ「喜多川歌麿」が抱いた"野心" 「ライバルを超える美人画を描きたい…」想いが実を結んだ作品

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大河ドラマ べらぼう 蔦屋重三郎 喜多川歌麿
花魁(写真:Makoto Sitizima / PIXTA)
今年の大河ドラマ『べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~』は横浜流星さんが主演を務めます。今回は喜多川歌麿の野心について解説します。
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虫の声を楽しむ石川雅望

天明7年(1787)8月14日の夜。蔦屋重三郎の親友・石川雅望(狂名は、宿屋飯盛。江戸時代後期の狂歌師・戯作者。蔦屋から多くの狂歌書を刊行)は、狂歌師の仲間たちと、野辺に鳴く虫の声を聴こうと、繰り出します。

隅田川の堤で、敷物を敷いて、虫の声を聴く雅望たち。彼らは単に虫の声を楽しんだだけではなく、虫の品評をしたそうです。「この虫の値段は高いだろう」「この虫の値段は低いだろう」というように。そして、狂歌師らしく、虫の品定めを素材として、狂歌会を開催したのです。

一方で、普通のやり方では面白くないということで、木下長嘯子(1569〜1649)による虫の歌合を模範としつつ、その中に、恋情を詠み込むことにしたといいます。

ちなみに、木下長嘯子(名は勝俊)というのは、豊臣秀吉の正室・寧々(北政所)の兄・木下家定の嫡男です。

秀吉に仕え、播磨国龍野城主、若狭国小浜城主を歴任しますが、関ヶ原の戦いの前に、伏見城を退去したことが徳川家康の怒りに触れ、戦後、城地を没収されてしまいます。

その後、京都東山の山荘に隠棲した長嘯子。和歌を詠むなど、風流の道に邁進します。藤原惺窩、林羅山、松永貞徳、小堀遠州など多くの学者や文化人と交流し、亡くなるまで、文雅を楽しむ生活を送るのです。

石川雅望らは、その長嘯子の撰による虫の歌合を模範とし、夜が更けても、狂歌会を楽しんだのでした。

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