どの家臣でも埋められなかった存在…秀長亡きあとに豊臣家がたどった「目も当てられない」迷走ぶり

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秀長亡きあとの豊臣政権のほころびについて振り返ります(写真:blanscape/PIXTA)
もし秀長が生きていたら徳川の天下は訪れなかっただろう――。もちろん歴史に「if」はあり得ませんが、多くの歴史家をしてこう言わしめるほど、豊臣家中における存在感が大きかったのが、秀吉の弟・秀長です。
本稿では、秀長の没後、坂道を転がるように衰退の一途をたどった豊臣家の迷走について、駿河台大学法学部教授・黒田基樹氏監修の『秀長と秀吉 天下を取った豊臣兄弟と野望に生きた戦国武将たち』から、一部を抜粋・編集してお届けします。

「太閤」を称し「唐入り」を決断

秀吉には多くの有能な直臣たちがいたが、彼らはあくまでも秀吉の命令を遂行する役割にあり、秀長のように、秀吉に直言し、その考えを変えられるような立場にはなかったようだ。そのためか、秀長亡きあとの豊臣政権は、徐々にほころびを見せていく。

秀長が亡くなった約2カ月後の天正19年(1591)2月28日、秀吉の側近の一人で、秀長とともに諸大名の取次も行ってきた千宗易(利休)が、秀吉の命により切腹する。宗易が秀吉の怒りを買った理由については諸説あり、いまだ定まっていない。

その約半年後の同年8月5日、秀吉の後継者になるはずだった鶴松が、わずか3歳で亡くなった。このとき、秀吉は目も当てられぬほどに嘆き悲しんだという。

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