どの家臣でも埋められなかった存在…秀長亡きあとに豊臣家がたどった「目も当てられない」迷走ぶり
「太閤」を称し「唐入り」を決断
秀吉には多くの有能な直臣たちがいたが、彼らはあくまでも秀吉の命令を遂行する役割にあり、秀長のように、秀吉に直言し、その考えを変えられるような立場にはなかったようだ。そのためか、秀長亡きあとの豊臣政権は、徐々にほころびを見せていく。
秀長が亡くなった約2カ月後の天正19年(1591)2月28日、秀吉の側近の一人で、秀長とともに諸大名の取次も行ってきた千宗易(利休)が、秀吉の命により切腹する。宗易が秀吉の怒りを買った理由については諸説あり、いまだ定まっていない。
その約半年後の同年8月5日、秀吉の後継者になるはずだった鶴松が、わずか3歳で亡くなった。このとき、秀吉は目も当てられぬほどに嘆き悲しんだという。


















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