どの家臣でも埋められなかった存在…秀長亡きあとに豊臣家がたどった「目も当てられない」迷走ぶり

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その後も日本軍は朝鮮半島全域の攻略を進めるが、戦線が広範囲になりすぎたことや兵糧の不足、朝鮮義兵の決起などに加え、7月に李舜臣の率いる朝鮮水軍に大敗して補給路を断たれ、さらに明が大軍を派遣したことなどによって、徐々に困難な状況におちいっていた。

文禄2年(1593)正月7日、李如松(りじょしょう)を提督とする明軍が平壌に陣する小西行長・宗義智らの日本軍を破り、漢城に向けて南下する。これに対し日本軍は、漢城の北方にある碧蹄舘(へきていかん)で小早川隆景らの軍勢が明軍を破り、李如松は撤退した。

こうしたなかで明との講和交渉が進められ、文禄2年4月17日に日本軍は漢城から撤退。5月15日に、明の使節(ただし、明皇帝からの正式な使節を詐称する偽の使節だった)は石田三成、小西行長らの案内により肥前名護屋城に到着した。

6月28日、秀吉は和議条件七ヶ条を偽の明使節に提示している。その内容は「明皇女を天皇の后とする」「断絶していた日明貿易を再開する」「朝鮮半島南部を日本に割譲する」「朝鮮王子および家老の人質差し出し」といったもので、日本側の優位を示すものであった。

しかし、この要求では和議がまとまらないとみた明の「使節」と小西行長ら日本側の折衝担当者は、秀吉の「降表」(降伏状)を偽作し、行長の家臣・内藤如安に持たせて明皇帝のもとに派遣した。

秀頼の誕生と秀次事件

こうしたなか、文禄2年8月3日、再び淀殿が若公(拾、のちの豊臣秀頼)を産む。この報をうけた秀吉は大坂城に帰り、以後、名護屋城に戻ることはなかった。

同年9月、秀吉は日本を5つに分け、そのうち4つを秀次に、残り1つを自身の手元に残し、いずれ拾(秀頼)に譲るという国内分割案を述べたという。また、同年10月1日に、秀吉は拾と秀次の娘との婚約を決める。秀吉は、秀次と拾を舅婿の関係にすることで、2人に天下を受け継がせるつもりだったようだ。

文禄3年(1594)正月、秀吉は新たに築城された伏見城に母子とともに移り住み、以後、同城を拠点に政権を運営するようになる。

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