どの家臣でも埋められなかった存在…秀長亡きあとに豊臣家がたどった「目も当てられない」迷走ぶり

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同年10月、秀吉は、朝鮮を経て明にまで兵を進める「唐入り」の実行を決め、その拠点として肥前名護屋城の普請を開始。それまで京都で進めていた大仏殿の工事を中止させ、渡海のための軍艦建造にその資材をまわしている。

同年12月、秀吉は甥の秀次に、豊臣家の家督と関白職を譲り、自身は「太閤」を称するようになった。ただし、その後も秀吉は実権を握り続けながら、「唐入り」の準備を進めていく。

文禄の役が始まる天正20年(1592)正月、秀吉は「唐入り」にあたっての軍勢編制を開始。同年3月に、九州・四国・中国諸勢に渡海を命じ、3月26日に、秀吉自身も名護屋城へと向かった。

4月12日、小西行長と対馬の宗義智(そうよしとし)らの率いる第一軍が釜山に上陸して「唐入り」への協力を要請したが、返事がなかったため翌13日に釜山城を攻め落とし、さらに15日には釜山内陸の東莱(とうらい)城を攻略。こうして文禄の役(第一次朝鮮出兵)が始まった。

朝鮮の首都・漢城を攻略

小西行長・宗義智らの第一軍に続いて、加藤清正・鍋島直茂らの第二軍、黒田長政・大友義統らの第三軍が朝鮮に侵入。天正20年5月3日には、朝鮮の首都・漢城が陥落し、朝鮮国王が逃亡した。

同月18日、首都陥落の報をうけた秀吉は、明征服後の統治構想を描いた「三国国割構想」を秀次に示した。

その内容は、後陽成天皇を北京に移し、日本の天皇は良仁(かたひと)親王か智仁(としひと)親王とし、豊臣秀次を明の関白(大唐関白)とし、日本の関白には羽柴秀保か宇喜多秀家を任命し、朝鮮は羽柴秀勝(小吉秀勝)か宇喜多秀家に与えるとし、さらに秀吉自身は日明貿易の拠点だった寧波(にんぽう)に居所を定めるというものだった。

この頃秀吉は、石田三成ら側近とともに朝鮮への渡海の準備を始めるが、徳川家康や前田利家らが秀吉の身を案じて押しとどめた結果、秀吉の渡海は翌年3月まで延期され、代わって石田三成・増田長盛・大谷吉継が朝鮮三奉行として渡海し、朝鮮に在陣する諸大名を指揮することになった。

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