どの家臣でも埋められなかった存在…秀長亡きあとに豊臣家がたどった「目も当てられない」迷走ぶり
ところが文禄4年(1595)7月、突然、秀次に謀反の疑いが持ち上がる。秀次は弁明のために伏見城の秀吉のもとへ赴くが、登城も拝謁もかなわなかった。許しを得られないと判断した秀次は元結(もとゆい)を切って出家し、わずかな供を連れて高野山へ出奔した。
それを知った秀吉は、7月10日に秀次の追放を公式に発表し、さらに高野山の住僧たちに秀次の監視を命じた。そして同月15日、秀次は切腹する。
なお、秀次の高野山への出奔や切腹は、秀吉に命じられたとする説のほか、秀次が疑いを晴らすために自ら行ったとする説もあるが、いずれであるかは定かでない。
さらに8月2日、秀吉は秀次の子女や妻妾ら30人以上を京都の三条河原で処刑したほか、近臣の多くも粛清されたという。
慶長の役と朝鮮軍の反撃
秀次が自害した結果、秀吉の後継は拾(秀頼)となったが、まだ幼いため関白職を継がせることはできなかった。そうしたなかで、明との講和交渉はまだ続いていた。
文禄5年(1596)閏7月、畿内で大地震(慶長伏見地震)が発生。秀吉のいた伏見城も天守をはじめ多くの建造物が倒壊したため、秀吉は城の移転を決定。近隣の「木幡山(こはたやま)」で新たな伏見城の築城を開始した。
同年9月、秀吉は大坂城で明の使節を迎える。
しかし、明皇帝からの誥勅(こうちょく/皇帝が位や官職を与える命令)の内容は、「茲特封爾為日本国王(茲に特に爾を封じて日本国の王と為す)」というもので、さきに明に提示していた和議条件はまったく無視されていたため、秀吉は激怒。結果、講和交渉は決裂し、翌慶長2年(1597)2月、秀吉は西国諸将に朝鮮への再出兵を命じた。
この慶長の役(第二次朝鮮出兵)は、明の征服を目的とした「唐入り」ではなく、朝鮮半島南部の確保を目的とした戦争であった。
戦闘は同年6月から始まり、翌7月、藤堂高虎、島津義弘らの率いる軍勢が、元均(文禄の役で日本軍を破った李舜臣は当時、失脚していた)の率いる朝鮮水軍を巨済島で破り、日本軍は慶尚・全羅・忠清(けいしょう・ぜんら・ちゅうせい)の三道へ進軍、朝鮮半島の南部を確保していったが、やがて明・朝鮮軍の反撃に苦しめられるようになる。


















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