大河「べらぼう」外国船を防げ!失脚させられるも優秀なのは確かな松平定信が江戸を守るために打ち出した仰天プランとは
『宇下人言』には、「海辺の御備について、予はかねがね建議していた」と書かれています。
老中・松平信明にも海防について調査するよう命じたようですが「今にその沙汰なし」と記されています。定信は同書に書いていますが、外国船が江戸に入りたいと思えば、江戸に来る途中、「小給所」が多く、「城」は少ないので、海より乗り入れれば「永代橋」(隅田川にかかる橋)の辺りまで侵入されてしまいます。
定信はこれを「喉を経ずして、すぐに腹中に入る」ようなものだとうまい表現をしています。徳川幕府において、海岸防備策を打ち出すのは、3代将軍・徳川家光以来のことでした。約150年ぶりのことだったのです。
同書には「寛永の大猷院様(家光)の時、海辺の備えのことに御心を尽くされ、北条安房守・福島伝兵衛などに命じて調べさせていたが、家光様が亡くなられてからは、その沙汰は止んでしまった」とあります。
定信は具体的に何をしようとしたか
家光以来の海岸防備策、定信は具体的に何をしようとしたのでしょうか。
定信は寛政4年(1792)10月、『海辺御備愚意』(海防策をまとめたもの)を老中に回覧させ、勘定奉行や目付にも意見を聞いています。そして「伺書」を11月に将軍・徳川家斉(11代)に提出しているのです。
それによると、海岸防備は、江戸湾から伊豆にかけて不十分と指摘されています。かつては、下田奉行・清水奉行・走水奉行・三崎奉行などが設置されていましたが、既に廃止されていました。よって、その辺りに警備体制が必要だと言うのです。
重要地点に奉行所を再び置くことを提案するのでした。が、今まで存在したような奉行所ではダメだと定信は主張します。
なぜか。『宇下人言』にもその辺りの理由が記されているのですが、それによると、前述したような「遠国奉行」は外国船が来なければ、日頃は何の務めもない。よって、後々は老齢もしくは余り能力のない者の転任先となってしまうのではないかと定信は危惧したのです。



















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