しかし、西郷が故郷に帰ってみたならば、鹿児島の雰囲気は一変していた。斉彬がいなくなったことで、父の斉興が再び影響力を持ち、藩内は一気に保守化。幕府を欺いて月照をかくまうなど、到底できることではなかった。
それどころか、薩摩藩からは西郷に、こんな非情な命令が下されることになる。
「月照を日向国に追放せよ」
日向国とは、現在の宮崎県と鹿児島県の一部のことで、当時は南部半分が薩摩領だった。だが、「日向国に追放」というのは、隠語である。実質的には「月照を道中で殺害せよ」ということを意味していた。
恩人を助けるつもりが窮地に追い込むことになってしまった。そのことに絶望した西郷は「もう死ぬしかない」と、日向国へ向かう舟の中で、月照を抱えて、海へと身を投げている。
その結果、月照は死去するが、西郷は一命をとりとめた。幕府の目から隠すために、西郷は奄美大島に流されることになる。西郷が島に流されたことで、大久保が若き政治組織「精忠組」のリーダーを担った。そして久光のもとで、大久保は同志たちとともに、力を発揮することになる。
影響力を持ちえたからこそ窮地に追い込まれた西郷
何と皮肉なことだろうか。無名だった大久保には、将軍継嗣問題など、まるで関係のないことである。だが、西郷は違う。すでに影響力を持ちえたからこそ、月照のような有力者とも深く関係し、そのことで結果的には窮地に追い込まれている。
大久保が薩摩藩でくすぶっているときに、すでに中央で活躍していた西郷。仲間の薩摩藩士から「大久保も江戸に来られるように、働きかけないのか」と聞かれたことがある。そのときの西郷の答えは前回の記事でも書いたが、西郷の島流しを踏まえて読むと、また違う印象を受ける。
「私の代わりは大久保しかいない。何かが起きたときに、2人とも江戸で倒れるわけにはいかないではないか」
西郷は、自分がすでに引き返せないところまで来ていると自覚していたのだろう。名を上げて、社会に影響力を持つということは、引きずり降ろされるリスクをもはらむということだ。
大久保がようやく上に上がったとき、上にいたはずの西郷は落ちてしまっていた。人生のめぐりあわせというものは、一寸先も読めないものだと改めて思う。
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