努力は積み重ねるものだが、結果は少しずつ出るものではなく、ある段階で、いきなり表面化する。それがゆえに、努力をしている途中では、自分のやっていることが、まるで意味のないことのようにすら思える。本当にこの方向で合っているのかと不安になってしまう。だから、地道な努力こそ続けることは、案外に難しい。
大久保にそれができた理由は明確である。それしか方法がなかったからだ。選択肢があれば、人は迷う。下級藩士の武士の家に生まれ、父が島に流された時期は食うことで精いっぱいだった大久保には、手持ちのカードが何もなかった。逆境からの一点突破。大久保にとっては、それが久光に接近することであり、全力を尽くしたからこそ、結果につなげることができた。
安政の大獄をきっかけに島流しになった西郷
文久元(1861)年、大久保は御小納戸役(おこなんどやく)に就任して、久光の側近に取り立てられた。32歳にして、異例の大抜擢である。さらに翌年には、御側役へと昇進。これまでのかすみがうそのように、大久保の視界は一気に広がることとなった。
大久保が飛躍しようとしていた、そのときに、先を走っていたはずの西郷はどうしていたかといえば、島に流されていた。きっかけは、幕府で大老に抜擢された井伊直弼による「安政の大獄」である。
背景を簡単に説明しよう。病弱な将軍である第13代将軍の徳川家定には、世継ぎが期待できない。そのため、聡明な一橋慶喜への期待が高まったが、井伊は次期将軍に紀州藩の徳川慶福を推す。そんな井伊の大老就任によって、将軍継嗣問題には決着がつき、家定の次には、慶福が将軍になることが決定。慶福は「徳川家茂」として、第14代将軍に就任している。
将軍の後継者争いは、いつでも敗れた側に厳しい。慶喜を将軍に擁立とした一橋派を、井伊は排除していく。また、井伊の開国路線に反対する、尊王攘夷派も取り締まった。
これがいわゆる「安政の大獄」と呼ばれる大弾圧であり、西郷の運命をも変える。一橋派として薩摩と朝廷を結んでいた住職、月照が幕府から追われる身となったからだ。
「幕府に命を狙われている月照を保護してほしい」
そう近衛家から依頼された西郷は、月照を故郷の鹿児島に連れ帰ることにする。実は、斉彬の急死を受けて、ショックのあまり西郷は墓前で切腹しようと考えていた。そんな西郷の破れかぶれな自害を止めてくれたのが、この月照だった。西郷からすれば、月照は命の恩人ともいえる。
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