
薩摩藩の下級武士の家に生まれた大久保利通にはあるトラウマがありました(写真:kohchan/PIXTA)
倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。
嫌われ者の大久保利通は、はたしてどんな人物だったのか。その実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第2回は、大久保が権力を握ることの重要性を認識した青年時代のトラウマについて解説します。
大久保家のトラウマ「お由羅騒動」
大久保利通がこれほど不人気な理由は、盟友の西郷隆盛を自刃に追いやった影響が大きい。だが、それだけではない。

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薩摩藩の貧しい下級武士の家に生まれた西郷と大久保は、2人とも実力者に近づいて出世した点でよく似ている。西郷は薩摩藩11代藩主の島津斉彬に、そして、大久保は斉彬の異母弟にあたる島津久光に引き上げられて、中央の政治へとかかわっていく。
だが、西郷の道のりは挫折の連続だった。斉彬が急死して後ろ盾をなくすと、西郷は実に2回も島に流されている。大久保とともに倒幕を果たして明治政府を樹立したあとも、西郷は征韓論をめぐり首脳陣と対立して下野。不平士族に担がれて、西南戦争へと突入することになる。
一方の大久保はといえば、久光にチャンスを与えられて以来というもの、一度もドロップアウトせずに、のしあがっていった。明治政府が樹立されてからも、権力を奪われることなく、暗殺されるまで権勢を維持している。
不器用な西郷に、うまく立ち回った大久保。その構図が不人気の原因ともなっているが、大久保が一度つかんだ権力を手放さなかったのは、青年時代のトラウマがあったからだといわれている。それは「お由羅騒動」による父の失脚だ。
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