嫌われ者「大久保利通」権力を欲し続けた納得の訳 身をもって世の理不尽さを味わった青年時代

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嘉永2(1849)年、「お由羅騒動」と呼ばれるお家騒動がなぜ起きたか。薩摩藩10代藩主の島津斉興が長男の斉彬ではなく、側室のお由羅との間に生まれた久光を後継者にしようとしたのが、そもそものきっかけである。斉興は、長男の斉彬を藩主として担ごうとする一派の動きを察知すると、それを返り討ちにして首謀者たちに切腹や遠島、謹慎などを命じた。

この「お由羅騒動」によって、大久保利通の父、利世は斉彬一派として遠島、つまり、島流しにされてしまう。そのとき、20歳だった利通は、藩の文書を取り扱う記録所で働いていた。だが、父の失脚によって職を奪われることになる。

一家を支える決意を固くした大久保

父の利世が流された島は、奄美群島で最も北東部に位置する、喜界島である。地図で見てもらえばわかるが、まさに絶海の孤島だ。いよいよ鹿児島から島に流されるという日に、利通は母、そして妹とともに、埠頭まで父を見送りにいっている。

過酷な環境下にある孤島で、父が何年過ごすかも、また、生きて帰って来られるかどうかもわからない。母は病気がちで、妹は3人もいる。これからは自分がしっかりして、一家を支えていかなければならない。

利通はそんな決意を固くしていたに違いない。見送りに連れてきた11歳の妹が、父との別れが近づいて思わず泣きだすと、こんなふうに声をかけている(『大久保利通伝』、現代語訳は筆者)。

「そなたも武士の娘ではないか。涙で父の出発を見送ってはいけないよ。父が心配するじゃないか」

それから時を経て、のちに利通自身が9人の子どもの親になると、ずいぶんと溺愛したらしい。明治新政府での重責を背負いながらも、出勤の直前に5分でも時間があれば、書斎に招いて子どもたちと戯れたという。

あの厳格な大久保利通が……と子煩悩ぶりを知って驚く声もあるようだが、多忙の間を縫って団らんの時間を作ったのは、家族が離れ離れになるつらさを、このときに痛感したからではないだろうか。

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