岩倉具視と大久保「打倒慶喜」へ企てた策がヤバい 徳川15代将軍に振り回された2人の大胆な決断
下級公家の堀河康親の次男として生まれた岩倉具視は、「麒麟児(才能にあふれて将来が期待できる若者)」として見初められ、岩倉具慶の養子として迎えられた(第1回)。岩倉が中央政界に自分の存在を知らしめたのが「廷臣八十八卿列参事件」だ。安政5(1858)年3月12日、88人もの公家が関白の九条尚忠邸へ押しかけて抗議した運動を主導(第2回)。その後は、朝廷と幕府の関係強化へ奔走(第3回)。「和宮降嫁」による公武合体を実現した(第4回)。ところが、台頭する尊王攘夷派の標的となって失脚。岩倉村での生活を余儀なくされる(第5回)。その後、政治活動を再開したが、その前に立ちはだかったのが徳川慶喜だった(第6回)。
慶喜の独走に焦る男たち
慶応3(1867)年3月29日、この日のことを岩倉具視は生涯忘れなかっただろう。5年にわたる蟄居生活に終止符を打つべく、追放解除の知らせが届けられたのである。
そうはいっても、月に1度の帰宅が許されたのみで、依然として岩倉村で監視される身だったが、行動が少しでも自由になれば、それだけ政治力を発揮しやすくなる。このとき岩倉は、自分を支えてくれた配下の士に対して、深く感謝を伝えた。
しかし、喜んでばかりもいられない。孝明天皇の死後、庇護を失ったはずの徳川慶喜は、かえって精力的に活動し始めた。攘夷思想に気を遣う必要がなくなり、あからさまに開国へと舵を切ったのである。
朝廷には海外と交渉できる人材がいないのをよいことに、慶喜は外交で存在感を強めていく。長年の懸案事項だった兵庫開港も条約の勅許も、慶喜は朝廷からもぎとってしまった。そんな慶喜について、宇和島藩前藩主の伊達宗城は苦々しく日記に書いている。
「朝廷をはなはだしく軽蔑しており、言葉にもできない」
かねてから岩倉が目指した体制は、朝廷を束ねる天皇が中心となり政策を決め、幕府が実行するというものだった。それにもかかわらず、慶喜の台頭により、岩倉の理想とはかけ離れた状態になってしまった。
このままにしておくわけにはいかない。危機感を持ったのは、岩倉以外にもいた。慶応3(1867)年10月6日、薩摩藩の大久保利通は、長州藩の品川弥二郎とともに、岩倉村へ足を運んだ。
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