良策のはずが墓穴「岩倉具視」に学ぶ想定外の怖さ いくら先見性が凄くても自分の没落は見通せず

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小
明治維新の立役者の一人である岩倉具視の短期連載第5回をお届けします(写真提供:TopFoto/アフロ)
「維新の三傑」といえば、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允だが、その裏で倒幕に貢献したのが、岩倉具視である。公家としては低い身分にありながら、強烈な上昇志向で、明治維新の立役者となった岩倉。その原動力はどこにあったのか。第5回となる今回は、尊王攘夷派の台頭によって急落した岩倉具視の運命をたどってみよう。
<前回までのあらすじ>
下級公家の堀河康親の次男として生まれた岩倉具視は、「麒麟児(才能にあふれて将来が期待できる若者)」として見初められ、岩倉具慶の養子として迎えられた(第1回)。岩倉が中央政界に自分の存在を知らしめたのが「廷臣八十八卿列参事件」だ。安政5(1858)年3月12日、88人もの公家が関白の九条尚忠邸へ押しかけて抗議した運動を主導(第2回)。その後は、朝廷と幕府の関係強化へ奔走(第3回)。「和宮降嫁」による公武合体を実現した(第4回)。

公武合体の実現後に岩倉が見せた変節

「最大の危機は勝利の瞬間にある」

フランスの英雄、ナポレオン・ボナパルトは、ヨーロッパで連戦連勝を重ねながら、そんな人生の法則を導き出している。誠に至言である。だが、どれだけ先見の明がある人物でも、勝利の瞬間に自分の没落を想像するのは、容易ではない。「物言う公家」として幕末の表舞台に登場した、岩倉具視もまた同様であった。

岩倉具視は、関白相手に立ち向かい、数多くの政治意見書を書いては孝明天皇をも動かした。恐れを知らない行動に出られたのは、岩倉に失うものがなかったからだ。下級の公家に生まれ落ちた岩倉が望んでいたのは、いつでも「変革」である。

孝明天皇の「異国嫌い」をテコにして、幕府に攘夷を約束させながら、公武合体を実現させた岩倉。あとは幕府と手を組んで、徐々に実権を朝廷に移すのみだったが、ここで岩倉は変節を見せる。

これまで敵視していた外様の有力諸藩に、岩倉は目を向け始めたのだ。

次ページ岩倉は何を考えていた?
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事