田沼意次は本当に「ワイロ政治」をしていたのか? 江戸幕府にはびこる腐敗の構造とは

徳川幕府の老中・田沼意次(1719〜1788)というと、金権・賄賂の政治家というイメージが強いでしょう。意次は金権腐敗の政治家か否かという議論は昔から重ねられてきました。ここでは、意次の「素顔」について見ていきましょう。
仙台藩主・伊達重村の工作
仙台藩主・伊達重村は、明和2年(1765)段階では「少将」でした。それを「中将」に昇進させたいと思い、彼は運動を開始するのです。
では、願望実現のためにどのように動いたのかと言えば、幕府の要職にある人、当時の老中・松平武元(上野国館林藩主)と、御用取次の意次に的を絞り「工作」をするのでした。
まず、伊達重村の側近・古田良智を松平武元の用人・宮川古仲太と意次の用人・井上寛司に接近させるのです。
用人とは主君の用向きを家中に伝達し、庶務を司る職制のことです。幕府要人の側近とまずは懇意な関係を作ろうとしたのでした。
老中の関係者に接近したのは、古田だけではありませんでした。江戸時代のロシア研究書とも言うべき『赤蝦夷風説考』を著した仙台藩江戸詰の藩医・工藤平助も、老中・松平武元の取次・那波牧太に接触しています。

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那波は、伊達重村の側近からの問い合わせがあるならば、主人(武元)も満足であるということ、主人の用人のところに出向く際は、人目を憚り、供の数を減らし、用人が住む藩邸まで来るように注意したといいます。
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